第二次世界大戦中、労働力不足を補うため、日本は植民地であった台湾の小中学校で海軍工員の募集を行った。1943年から1944年にかけて、8000余名の台湾の少年たちが神奈川県大和市にあった海軍空C廠(のちの高座海軍工廠)に派遣された。その後、日本各地の軍需工場で軍用機の生産に従事するが、日本の敗戦でその任務は解除され、翌年、多くの少年工たちは台湾に戻ることなった。しかし、一部の元台湾少年工にとってはこれが新たな苦難の始まりでもあった。


台湾の少年たちはどのような理由で少年工に応募し、日本にやってきたのか。彼らの個人的な事情を当時の社会的な背景と共に明らかにされていく。台湾の少年たちが日本で軍用機の生産に関わったのはわずか1年から2年であったが、この短い日本での経験が彼らの一生を大きく左右することにもなった。「緑の海平線」は、台湾から神奈川県の高座海軍工廠に派遣された少年たちの異なった人生の歩みと彼らの多様な視点を通していかに政治に一般の人々が翻弄されたということ、そして東アジアの異なった社会や体制下で何を考え、どう生き、どのような喜びと悲しみを持ちえたのか、を記録したドキュメンタリーである。


郭亮吟は第二次世界大戦後に台湾に残された零式戦闘機と彼女の家族の歴史を扱ったドキュメンタリー「尋找1946消失的日本飛機」を制作する過程で元台湾少年工たちの歴史を知った。台湾では彼らの歴史はほとんど知られておらず、郭亮吟とそのドキュメンタリーで制作を務めていた藤田修平は共同でリサーチと制作を始めた。(藤田は神奈川県大和市に移り住み、日本での調査を進めた。)2004年から国家文化芸術基金会(台湾)、交流協会(日本)、駐日台北経済文化代表処などから助成を受けることになり、本格的にドキュメンタリー制作が開始された。撮影と資料調査は台湾、日本、中国、アメリカにおいて行われ、4年の歳月を経て、2006年に完成した。

 


 

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