原載於 東京新聞 2007年11月20日 朝刊 記者/近藤晶

 第二次世界大戦中、台湾から日本に派遣され、海軍工員として軍用機の生産に従事した少年たち。彼らの人生の足跡をたどったドキュメンタリー「緑の海平線〜台湾少年工の物語〜」が29日、NHK衛星(1)「BS世界のドキュメンタリー」(午後9時10分−同10時)で放送される。 (近藤晶)

 「少年工の話は、台湾でもあまり語られておらず、こんな歴史があったのかと非常に驚いた」と、「緑の海平線」のプロデューサーで、慶応大学環境情報学部専任講師の藤田修平さんは語る。

 藤田さんは一九九九年、映画製作を学ぶため、米・南カリフォルニア大大学院に留学。「緑の海平線」の郭亮吟監督は、大学院の同級生だった。二人は二〇〇二年、卒業作品として、郭監督の家族と「ゼロ戦」に関するドキュメンタリーを制作。その取材過程で、台湾少年工の話を聞いた。

 大戦中、日本の青年男性は戦地に動員され、国内は深刻な労働力不足に陥った。旧海軍は軍用機生産増強のため、台湾から約三万人の少年工派遣を計画。一九四三−四四年、約八千人が神奈川県の「高座海軍工廠(こうしょう)」に送られてきた。そこで短期間の訓練を受けた後、日本各地の軍需工場で軍用機生産に従事したという。

 留学を終えた藤田さんは、海軍工廠の宿舎があった同県大和市に転居し、二〇〇三年から本格的な調査を開始。台湾少年工に関する公的な文書はほとんど残っていなかったため、同市や防衛省のほか、台湾の当時の新聞記事や、米公文書館などで資料を探した。撮影は台湾、日本、米国、中国で行い、完成までに四年を要した。

 「日本で技術を学びたかった」「田舎は貧しく、就職先は限られていた」。台湾の元少年工たちは、インタビューの中で応募した動機を振り返る。「半工半読」。働きながら勉強でき、旧制中学と同等の学歴が与えられるという条件から、進学をあきらめていた少年たちが数多く応募した。

 日本では、「ゼロ戦」「月光」「紫電改」「雷電」といった戦闘機の製造に従事。しかし戦局は急速に悪化、学ぶ機会はほとんど与えられず、本土空襲で幼い命を落とす少年工もいた。終戦と同時に、台湾に戻った者は国民党政権下の厳しい社会の現実に直面する。一方で日本にとどまったり、その後さらに中国へ渡ったりと、歩んだ道はさまざま。「政府や誰かに頼ることはできず、自分に頼るしかなかった」。異なる道を選んだ彼らの人生もまた、政治や社会に翻弄(ほんろう)されていく。

 インタビューで元少年工たちは、北京語ではなく台湾語や客家語で語る。「言語的に抑圧されてきた台湾では、言語というのは非常に大事。一番話しやすい言葉でないと感情が出てこない。自分自身の歴史に関することは、自分の言葉で語ってほしかった」と藤田さん。インタビュー取材は、数十人に上った。

 昨年、完成した作品は、台北国際映画祭ドキュメンタリー部門コンペティションで審査員特別賞を受賞するなど数々の映画祭で高い評価を受けた。台湾では大学などで約六十回上映、今年二月にはテレビでも放送され、大きな反響を呼んだ。

 「緑の海平線」というタイトルは、少年工たちの風景の記憶に由来している。日本へたった彼らの多くが、期待と不安の中、船の甲板から見つめていた故郷が、徐々に“海平線”に沈んでいく姿を忘れられない風景として語ったのだという。

 藤田さんは「日本、台湾、中国を含めたアジアの歴史はこんなふうに絡み合っている。元少年工たちそれぞれの人生を通して、もう一度歴史について考えてもらえれば」と話している。