読売新聞 2008年10月30日 地方版 [神奈川県] 

第2次世界大戦中、座間、海老名市にあった軍需工場「高座海軍工廠(しょう)」で働いていた元台湾少年工の証言を記録した映画「緑の海平線〜台湾少年工の物語」(郭亮吟監督)が31日まで、「シネマ・ジャック&ベティ」(横浜市中区)で上映されている。元少年工の生き残りとして映画に出演した大和市在住の呉春生さん(79)は、「少年工の本当の姿を知ってほしい」と呼びかけている。

 呉さんは、1944年、台湾少年工の第6期工として、高座海軍工廠にやってきた。「台湾は貧しく、勉強ができなかった。働きながら勉強でき、なおかつ国のためになると思った」と当時を振り返る。

 同工廠には、台湾から来た約8000人の少年工が働いていた。戦闘機の大量生産の必要に迫られた日本が、労働力不足を補うため、当時、日本の統治下にあった台湾の優秀な少年を1943年から7回に分けて動員。少年工は、大和市上草柳にあった寄宿舎で暮らしながら、戦闘機「雷電」などを生産していた。

 「緑の海平線」は、同市在住の映画プロデューサーで慶応大講師の藤田修平さん(35)らが2006年に製作。今年5月に大分県で開かれた「ゆふいん文化・記録映画祭」で優秀作に与えられる「松川賞」に入選した。地元・神奈川で上映されるのは今回が初めてだ。

 4年がかりで撮影された映画は、歴史に埋もれていた台湾少年工に光を当て、貴重な同工廠の写真や映像、元少年工のインタビューを紹介、彼らが戦後をどう生きたかを描いている。

 15歳だった呉さんは台湾の国民学校高等科で級長を務めた。「みんな選ばれた人間という意識を持ち、誇り高く、張り切っていた」と回想する。

 すでに日本は敗色濃厚。呉さんは、同工廠に1か月いただけで群馬県の工場に派遣され、1年後、同工廠に戻って終戦を迎えた。

 呉さんは終戦後、日本に残り、外交官を夢みて、働きながら勉強を続け、中央大学に入学。だが、日本国籍がないため、卒業後もすぐには職につけず、25歳で横浜市瀬谷区にある米軍・上瀬谷通信施設の法律顧問としての職を見つけ、70歳になるまで働いた。

 1972年の日中共同声明では日本と台湾の国交が断絶。「裏切られた思いだった」という呉さん。「自分たちは向上心を持ち、将来を夢みて日本にやってきた。決して無理やり連れてこられたわけではない」。歴史に翻弄(ほんろう)された元少年工は静かに語った。

(2008年10月30日 読売新聞)