(原文映画評 郭亮吟/藤田修平『緑の海平線』文/溝渕久美子(名古屋大学大学院博士後期課程)

 日本映画学会の会員である藤田修平氏が、台湾公共電視のディレクターでありプロデューサーである郭亮吟氏とともに、1本のドキュメンタリー映画を発表された。この映画は「歴史」を記録したものである。しかし、ここには教科書でその個人名が扱われるような人々は登場しない。むしろそうした人物たちはこのテクストからはその存在が視覚的にも聴覚的にもほとんど排除されている。それに代わり、ここで焦点が当てられるのは、戦時中の2年間に台湾から日本に渡り、戦闘機の製造に従事した少年たちである。日本ではすでに忘れ去られ、ほとんどその存在を知られていないであろう台湾少年工たちの半生を、老年を迎えた元少年工とその他の関係者へのインタビューや、彼らの私物である写真などの膨大な史料をもとに描き出したことは大変意義深く、同時にそのことによって個人史の問題や国家という枠組みで歴史を語ることの限界など、我々が歴史を考え記述していく上でのいくつかの重要なテーマをも扱うすぐれたドキュメンタリー映画である。

 第二次世界大戦中の1943年から1944年にかけて、当時日本の植民地であった台湾の男子小中学生を中心に、働きながら勉強ができるという「半工半読」の惹句のもと工員の募集が行なわれ、8400人以上の少年が、台湾から神奈川県大和市にあった海軍空C工廠に派遣された。そこでの短い職業訓練の後、少年たちは船橋や名古屋をはじめとする日本各地やマニラの軍需工場に送られ、夜間戦闘機「月光」や零式戦闘機「紫電改」「雷電」などの製造に携わっていった。

 この映画のタイトルである「緑の海平線」は、工員として採用され、故郷の台湾から日本へ向かう少年たちが船上で見た光景に基づいたものであるという。それが象徴する通り、この作品では元台湾少年や彼らの指導にあたった日本人関係者の語りに等しく耳を傾け、公的な歴史には残されることがなかった個人の歴史をすくい上げていく。

 この映画では大きな歴史的コンテクストを説明するものとして、当時の様々なニュース映像や記録映像、新聞記事や公文書の書面が用いられる。元来、こうした資料では個人はただの要素として扱われる。例えば、作中で用いられている飛行機を製造するための技術訓練や工場での飛行機の組立作業を収めた記録映像では、機材を運んだりナットを締めたりする人物というカメラの前の視覚的要素にすぎない。公的な名簿では少年工個人の名前は単なる漢字の羅列、さらに新聞記事ではそこに書かれたグループや数字の構成員でしかなく、そこからは、それぞれの元少年工らが故郷を離れ、日本でどのような経験をし、終戦を迎え、そしてその間何を考えていたかということが浮かび上がることはない。しかし、この『緑の海平線』では、13名の元台湾少年工と3名の日本人関係者へのインタビューに加え、膨大な当時の家族写真、記録写真、家族や教師とやり取りした葉書や手紙、卒業文集、身分証明書などを提示していくことで、多様な個人の歴史を描き出していく。そのような形で、個人の歴史を取り上げつつ、個人の歴史が公的な歴史と相互に連関しあい、切り離すことができないものであることも、それぞれの視覚的・聴覚的な要素が縄を綯うように複雑かつ巧みに配置されることで示される。大きな歴史を示す映像と、個人の歴史を掘り起こすインタビューや史料が、作品のタイムラインにそって交互に編集され提示されるだけではなく、繰り返し同じフレームの中に重ねられる。元少年工たちが自らの記憶に基づいて彼らの歴史を語る声や少年時代の彼らを撮影した写真を、それ単体で見ても個人が省みられることのないニュース映像や記録映像などとオーヴァーラップさせることで、これまで忘れ去られ取り上げられることのなかった少年工の存在が、大きな歴史の流れの中に杭のように打ち込まれるのだ。

 また冒頭で述べたように、この作品では教科書に現れるような歴史的人物は視覚的・聴覚的にほとんど排除されているが、例外的にいくつかの視聴覚史料が用いられる。昭和天皇の玉音放送や厚木飛行場に降り立つマッカーサーの映像がそれである。一般的に終戦から占領期への歴史的な流れを象徴的に示すものとして、我々が様々な媒体で繰り返し触れてきたそれらの史料は、しかしここでは「大きな歴史」を説明するためのものではない。そのふたつが用いられるのは、天皇が終戦を告げる声がラジオから流れる場に、または飛行機から連合国軍の最高司令官が姿を現したその場に、元少年工たちが存在し、それらを見聞きした経験と記憶を持っているからである。つまり、やはりここでも、個人の歴史の中に公の歴史を位置づけ、同時に歴史というものを考える際、両者が分かちがたいものであることが示唆される。

 このように多様な個人の歴史に注目することで、歴史を「国家」という枠組みでとらえ、問題にすることの困難さも炙り出される。元少年工たちの歴史を時系列に配置したこの作品では、後半で彼らと東アジアの戦後が扱われる。そこでは、戦時中には「日本人」として日本名を持ち日本語を話していた少年工たちが、台湾、日本、中国の関係性の間で再びアイデンティティを大きく揺り動かされた過程が記録される。戦時中に日本に渡ってきた少年工たちは、終戦と同時に戦勝国側の「中国人」となり、様々な人生を歩んだ。彼らには、国民党政権下の台湾に帰国したり、日本に留まり「第三国人」として生きることを選択したり、中華人民共和国成立後に大陸に渡ったりといくつもの選択があったが、いずれにしても戦後の東アジア社会の政治的な流れと関わることになった。例えば、台湾に戻ったある少年工は、国民党政権下で中国語を勉強することを拒否し、独学で英語を学び、アメリカ大使館の運転手として働くことで、アメリカと関わった。日本での生活を続けた少年工は、「第三国人」としての特権を利用するも、やがてそれも剥奪されていくという厳しい現実に直面した。また、再び勉学を志して大陸に渡った元少年工は文化大革命の中、日本で少年工として働いていた過去を問われ、新疆で強制労働に従事させられ、その地で教鞭をとりながら1980年代までを過ごし、台湾を離れた後40年を経て故郷に帰ることができた。同じ台湾を故郷とする元少年工たちは、台湾、日本、中国、アメリカと様々な国家と関わりながら年老いていったのだ。複数の言語を喋り、複数の国を渡り歩き、複数のアイデンティティを持った元少年工たちの人生は、そのまま国家を超えた東アジアの歴史としてとらえられるのである。このように、様々な政治的圧力や個人的選択により、個人は容易に国境を越えて、複数の国家と関係を持つ。そうした個人の流動性を前にしたとき、国家という枠組みで歴史をとらえることの限界が明らかになるだろう。

 戦中・戦後の台湾少年工たちの歩みを通して、「歴史」そのものの複雑さをも扱ったこの映画には、ある種の戦後民主主義的な言説が陥りがちな被害者対加害者という単純な二項対立は存在しない。元少年工の語りも日本人関係者の語りも、等しく尊重しなければならない個人の記録としてただ淡々と扱われる。その結果、このドキュメンタリーは、これ自体が歴史的な資料として意義深い作品となっており、様々な立場の多くの人々に見てほしい労作である。